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ブログ開設4周年記念 〜159回〜

2020年4月19日に、このブログを書き始めました。正式にいうと『Ambarvalia(アムバルワリア)』という妙な名前のウェブサイトのブログコーナーです。コロナウィルスが蔓延し、在宅勤務が強いられるなかで何かできることはないかと始めました。

 

実験的にスタートしたのですが、予想外の反響? もあり何となく今日まで続けてきました。当初は週1ペースでアップしましたが、ロードバイクの落車事故による入院等もあり、不規則な更新になっていきました。最近は隔週くらいで更新できているかと思います。

 

このサイトがきっかけとなって友人や仕事が生まれたこともあります。自分の考えを発信することの重要さと、その裏返しの怖さも感じてきました。メールやSNS、Slack等での意見交換でもミスリーディングは付きものですよね。

 

コミュニケーションは難しい。会話でさえ誤解を招くことが多々あります。昨日もある建築家とのZoomでのやりとりで、「デザイン」と「ブランド」の概念の同調に困難を極めました。言葉の世界にいる僕と形の世界にいる彼とでは言語が異なるのかもしれない。

 

このことについて、今日は僕が尊敬する社会学者の故見田宗介に触れてみたい(参照ページ)。見田さんは「悠々としたものによせる心」を読者に共有すべく真木悠介というペンネームを使った著書を持っていて、その中に下記の言葉があります。

 

ーー矛盾したことばでおなじことが言われることがある。

  ほんとうに矛盾していることもある。

  矛盾したまま、それぞれが真実であることもある。

  大切なことは矛盾じゃない。

  大切なことは一貫性じゃない。

  ことばがそのときそのひとの

  どれだけ深い真実を語っているかということだ。ーー

         『野帳から 四 ことばについて(Ⅰ)』より

 

昨日の打合せで感じたのは、お互いにどこまで真剣に深い真実を語ったかということだと思うのです。諦めず、投げ出さず、矛盾していたとしても真実を語り続けることができるか。僕がこれまで心酔した書物、例えば真木の『気流の鳴る音』も大江の『ヒロシマ・ノート』もそうなのだと。

 

パロール(話し言葉)であろうとエクリチュール(書かれた文字)であろうと、深い真実を語ることばには威厳がある。まさに『ヒロシマ・ノート』にある「人間的な威厳」を、会話や文体のことばに込められるかどうかだと感じるのです。

 

僕のブログはそんな高尚なことを書いているわけでは全くないし、阿呆なことがほとんどかもしれない。でも真実でありたいと思っています。4周年なのでちと真面目に語ってみました。お祝い事なので大目に見てね。笑 

 

最後に、真木さんが山尾三省の死にあたり書いたエクリチュールを転記しておきます。威厳ある人間は死ぬことさえありません。

 

ーー三省さんが、このように生きた、という真実は、永遠に消えるということがありません。死によって消える生が存在し、死によって消えることのない生が存在します。真実に生きられた生は、死によって消えるということがありません。ーー『静かな死。静かな生』より