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言葉を超えた愛があるか? 〜160回〜

前回のブログ「言葉について」の延長戦。遠い昔の話です。ある冬のこと、僕は仕事のため1人、都内のホテルレストランで夕食を取っていました。隣のテーブルで若いカップルが口論を始めます。だんだんと大きな声になってきたので内容がわかってしまいます。

 

ーーだからぁ、私はスキーに行きたいわけでしょーー「だから、俺は寒いところが嫌いなんだって」ーー好きな人のためなら我慢するのが普通じゃない?ーー「好きなやつに嫌いなことをさせる方がダメじゃん」時代はまさにスキー全盛期。彼女の気持ちも分かります笑

 

ーーだいたい体が弱すぎなのよ、すぐに風邪引くしーー「そういう体質なんだから仕方ないだろ」ーー鍛え方が足らないのよ、漫画ばっかり読んでーー「君は異常な健康体だから分かんないだよ」多分、長くは続かんなぁ、この2人は…と思いながら僕はカニピラフを口に運びます。

 

僕が影響を受けた哲学者にルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインがいます。彼の有名な概念に「言語ゲーム」があります。とても簡単にいうと、言葉を使うことは、あるゲームのルールに従うことに似ているとする考え方です。

 

言語による表現は、人々の間に共有されたルールに基づくもの。ですから学校や家庭、あるいは企業など、それぞれ異なったルールの下で会話が成立するわけで、言語の絶対的ルールなど存在しない。同じ日本語でも組織によってルールは異なる訳です。

 

今や「言語ゲーム」の考え方は心理学や社会学において社会規範の研究の基礎概念となっています。上司への「挨拶」や恋人への「振る舞い」も言語ゲームの延長と言えるのはご理解いただけるかと思います。(※ここではウィトゲンシュタインの哲学をかなり簡略化しています。)

 

例えば「振る舞い」において、アフリカの一部の国では同性愛者でなくても男性同士が手をつないで歩くことは普通ですが、日本でいい歳をしたおじさん2人が手をつないで街を歩いていると「あぁ、そういう性的志向の人なのだ」と思われる訳です。

 

インバウンドが回復した日本において、外国人の振る舞いが問題視されたりする。育った国が違えばルールも異なる。観光地でゴミが散乱したりホテルでの喧騒が社会問題化しています。冒頭の日本人カップルも異国人くらいお互いのカルチャーが異なるとも言えます。

 

言語の限界についてもウィトゲンシュタインは考察しています。言語は特定の文脈や目的に応じて機能しますが、すべてのことを言葉で表現することはできない。特に人間の経験や感情、個々の内面については、表現することが不可能であるとしました。

 

レストランで喧嘩を始めたカップルも、言語で解決するのはすでに不可能。会話を止めBGMで流れる心地よいジャズにお互い耳を傾けるか、外に出て星を眺めながら手でもつなぐ方が、よほど良い解決策になる訳です。

 

現在、我々はコミュニケーションを言語に頼りすぎている気がします。言葉=思考かのように会話のみで人格が判断される。論理を組み立てる記号として言語は使用されますが、思考が言語によってのみ成立しているわけではありません。

 

言葉にしないとわからないから毎日「好き」と伝えろという人もいますが、言葉で伝わるほど俺の「愛」は軽いものではないという人もいる。人によって愛や恋の解釈もさまざま。まぁ、恋人2人の言語ゲームに他人が口を挟むのもルール違反ですから、今日はこれくらいで。笑