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感覚とデカルトと広告 〜163回〜

先週は、田中泯さんの近著『ミニシミテ』(講談社)から、「カラダの言葉で考える」というタイトルでブログを書きました。今日は、「カラダ」から「感覚」へ、この延長線でもう少し考えてみたいと思います。

 

今、仕事で「感覚」ということについて熟考しています。別に僕は学者でもないし、心理学の研究家でもないので、なんで熟考? と思われる方もあると思いますが、そのタネ明かしはまた後日。お楽しみに。笑

 

「感覚」については、古くはギリシャ哲学から近代のパスカルやデカルトまで、かなり深く考察し、多くの書物が残っています。デカルトは『省察』に、またパスカルは僕の大好きな『パンセ』にいろいろ記している。

 

ーー我思う、故に我ありーーで有名な『省察』ですが、あえて簡単にいうと「感覚」を疑ったデカルトの最終地点がこの言葉と言える。肉体が与える「感覚」はしばしば間違いを起こすという前提に立つからです。

 

「感覚」から得られるものに確からしいものは何もないという徹底的な懐疑(方法的懐疑)の末に、自分自身がここに存在することは否定しようのない絶対的な真実だとした。コギト・エルゴ・スムです。

 

森有正という哲学者をご存知でしょうか? 講談社現代新書に『生きることと考えること』という名著があります。受験に失敗し自棄になっていたw大学生の頃の愛読書の一つですが、森はまさにデカルトやパスカルの研究家でした。

 

「感覚」について、デカルトを例に、森は、感覚の対象は結果的に思考の対象になるとする。感覚を出発点としない抽象操作はあり得ない。なぜならこの世界で触れられるのは直接的な感覚世界であって抽象的な世界ではあり得ないから。

 

当たり前のようで実は深い。デカルトにとっては人間の魂でも精神でも最後は物となる。抽象的に例えたモノではなく実「物」な訳です。森は作曲を例に出します。音の配合・構成は人の精神が作り上げた調和世界であり、動かすことのできない確かな「物」であるというのです。

 

ーーその証拠には、現にその音楽がたくさんのほかの人を感動させるし、決して抽象的な空で考えた夢ではないということがはっきりしている(『生きることと考えること』)ーー人の「感覚」を出発点に抽象化(魂や精神が込められる)されることで、それは「物」となる。

 

広告業界では「モノからコトへ」を合言葉に、コト消費(イベントや体験)ビジネスをフォーカスした時期がありました。モノを売るだけでは消費が伸びないから、コトまでマーケティングしはじめた訳です。コトを欲望化し商売にする…。

 

森は、「物」の一般概念を変えたといえます。広告屋がいうモノもコトも、森に言わせれば同じ「感覚」を出発点とした人の精神性そのものです。SNS広告の規制がニュースになっています。FacebookやXで著名人に語らせたような詐欺広告が蔓延している。

 

僕は長い間、広告業界にいましたが、ずっと考えていたことがある。マーケティングという言葉ができた頃から、広告は「欲望を作り出す」ビジネスと化していった。感覚からできあがった「物」(=人の精神性)を商売にするということの罪深さ。

 

よくよく考えてみれば、なんて浅ましい商売なんだろう。過剰な消費を煽る現代資本主義の悪しき産物なのかもしれない。自由がもたらす過剰な生産消費に何らかの規制をすべきではないかと警告する経済学者も現れています。

 

黄ばんだ『生きることと考えること』の次の箇所に大学生の僕は赤線を引いていました。ーーほんとうの思想というものは、空虚な饒舌の中から出てくるものではなくて、沈黙の中における思索の経験というものからだけ出てくる。ーー

 

広告とは「空虚な饒舌」そのものだったのではないか。広告の意味を真剣に考えねばいけない時代なのかもしれません。(※罪滅ぼしのために言うわけではありませんが、すでに広告会社も広告というカテゴリーにはおさまらない業態になっています。)