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平和ボケでいいじゃないか 〜165回〜

昨日の朝6時のNHKニュース『おはよう日本』で、広島の被爆者である阿部静子さんの以下の詩が紹介されました。18歳という一番美しい時に被爆した静子さん。やけどをした顔の右側をなるべく見せないように、髪を伸ばして帽子をかぶり、うつむいて暮らしていたと言います。

 

ーー悲しみに苦しみに

  笑いを遠く忘れた

  被災者の上に

  午前10時の陽射しのような

  暖かい手を

  生きていて良かったと

  思い続けられるようにーー

 

静子さん曰く。「正午や午後1時の日差しは暖かいけれど、せめて午前10時の日差しでいいので私に与えてください。そうすれば、閉ざした心がほぐれるかもわからない、そんな気持ちでした。生きていてよかったと瞬間ではなく、ずっと思い続けられるように。そんな願いも込めました」

 

暑くなってくると、広島のメディアでは「あの暑い日」の特集が増えます。静子さんの報道で僕は朝から涙が溢れ止まらなかった。偉そうに書ける知識も立場もないのですが、被爆2世として思うことがあり、今日は少し平和について書いてみたいと思います。

 

静子さんが生きること自体に悩んでいた時、世界はずっと冷戦の時代でした。ソビエト連邦を中心とする社会主義は「自由」という価値よりも「平等」の方を重視したわけですが、冷戦はあのような結果に終わり、ソビエト連邦は崩壊してしまう。

 

資本主義は、まさに「自由」よりも上位の価値を認めない社会といえます。「自由」を上まわる概念を置く社会は、結局うまくいかないということを冷戦の終了が証明したと西側の多くの人々が語り、「自由」を謳歌し、「自由」そのものの魅力は何よりも強いのだと主張してきた訳です。

 

ただ今の資本主義の行き詰まりは、「自由」そのものが原因とは考えられないでしょうか。いや、誤解されても困るんですが、「自由」というのは、結局その最終ゴールも「自由」な訳です。だから「自由」の目的自体が散漫化し、格差や偏見さえ生み出してしまう。

 

「自由」においては人類の倫理という規範までもが、あちこちを向いてしまっている。あの原爆を投下したアメリカはいまだ自らの行為を否定しない。それが「自由」という概念の弱点でもあると思うのです。僕は「自由」の上位の価値/概念として、あえて「平和」を置きたい。

 

「平和」が人類の最上位概念であれば、どんな世界が広がるだろう。そんな平和ボケした思想はくだらないとあなたは言えますか? 静子さんの苦悩を前に、僕はあえて言います。ーー平和ボケでいいじゃないかーーと。

 

静子さんの詩を読んで思い出したことがあります。本当の「リベラル」(自由)とは、哲学者リチャード・ローティによれば「残酷であることが、我々がなす最悪の事柄である」とみなすことを意味するのです。

 

ローティの言う「リベラルな社会」とは、他者からの/他者への残酷な振る舞いが抑止されるような社会を示す。すなわち本当に「自由」な社会では、残酷さを排除した「平和」の概念が優先されるべきだと言えないでしょうか?

 

憲法9条の議論が、自民党の不祥事もあって、ここ当分、話題にならなくなっています。戦後80年が近づいている今、もう一度しっかりと考えるべきだと思うのです。「平和」こそが、人類の、いや宇宙における最高位の普遍的価値であるということを。