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8・6の日に広島で想う(幸福の王子と原爆) 〜171回〜

 難解な哲学書の代表格といえばハイデガーの『存在と時間』。よく哲学の三大難解書と言われますが、カントの『純粋理性批判』、ヘーゲルの『精神現象学』と並び、読破するのが困難な哲学書として有名な本です。

 

この6月にマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで説いた『あした死ぬ 幸福の王子』(ダイヤモンド社)が発刊されました。難解極まりない『存在と時間』の思想をとても分かりやすい物語にしています。

 

オスカーワイルドの『幸福な王子』をフィーチャーしたエンディングに感心させられました。著者の飲茶さんの知見には『史上最強の哲学入門』シリーズで圧倒されたのですが、今回もそれに劣らず素晴らしい内容です。

 

ハイデガーの重要概念である「先駆的覚悟性」(死を直視して自分の死を受け入れる立場)をメインテーマにストーリーは展開します。多くの人びとは死を恐れます。恐れるからこそ直視したくない、いや直視できない。ハイデガーは、だからこそ死を直視しろという。

 

主人公であるオスカー王子は、サソリに刺され数日後に死ぬことになってしまう。「本来的な生き方」と「非本来的な生き方」の間で悩んだ末に(まさに死んで「王子の像」になる直前)、人間の「被投性」と「企投性」について、まるで悟ったかのように次の発言を残します。

 

ーー「彼らはーー気づいたらこの世界に放り出され、そして、死ぬことが運命付けられ、何が正しいかもわからないまま、自分だけの固有のあり方を問いかけ、他と関わりながら、今ここに現に生きている存在ーーである」ーー『あした死ぬ 幸福の王子』

 

いきなり、この言葉を投げかけられても訳が分かりませんか? まぁ、人間は存在しようと決意した訳でもないのに、いつの間にかこの世の中に投げ出されている(被投性)わけで、こんなふうにいつも行き当たりバッタリの存在なのです。

 

そんな行き当りバッタリの出来事が続くある日、79年前の今日8月6日、人類初の核兵器が広島市の上空でいきなり炸裂しました。この時、ハイデガー的に言うと、被爆者は自分自身をどう投げ入れた(企投性)のでしょうか。

 

悲惨な状況にいきなり投げ出され、悲劇の渦中に自らを投げ入れるしかない多くの被爆者たち。人間はただ投げ入れることしかできないと一般的には言うが、僕はこの場合、投げ入れる「自由」はあると解釈したいのです。

 

何が正しいかもわからないまま、自分だけの固有のあり方を問いかけるーー79年前、ここ広島に存在した被爆者たちが何を考え、何を思って死んでいったのか。あるいは生き残ったのか。それぞれの「想い」は人間の自由であることを強調したい。

 

僕の母は、現在の広島市安佐南区で黒い雨に遭いました。旧市内から数え切れぬほどの怪我人が逃げてくる恐ろしい光景を今も鮮明に覚えているという。母の目の前で、息絶えた人もいるが生き延びようと戦い続けた人もいる。

 

黒焦げになろうとも誰もがひとり一人、尊厳ある人間なのです。どんなに卑劣で悲惨な状況下にあろうとも、それを問いかける自由がある。世界を憎もうとアメリカを恨もうと、「思考」の自由は誰にも奪うことができない、誰にも非難されるべきではない。

 

今日の報道を見ると、核抑止論からの脱却をどのメディアも伝えている。世論に流され、無理やり肯定的に原爆を乗り越える必要はないと思います。核廃絶を本当に実現するには、アメリカがまず自ら犯した行為を過ちと認めるべきです。

 

原爆投下は、どう考えても国際法に反する犯罪行為です。それは日本に謝罪するとかしないとかのレベルの話ではない。核の傘の下にあることに甘んじる日本政府の軟弱な態度は、到底理解できないことを8・6の今日はお伝えしておきます。