「恥」という漢字を学んだのは小学3年生くらいでしょうか。10歳の僕は、公にするのもまさに恥ずかしいのですが、耳へんに心と書くこの漢字を「耳も心もないほど恥ずかしい」と覚えました。
あれから半世紀、恥をかき続けた人生ではありましたが、漢字の「恥」だけは間違うことなく今もちゃんと書くことができます。ただその後の試験で部首の「犭」を、「けだものへん」と答えたのは僕ですw
「羞恥心」は、心理学で社会的動物として存在するための理屈でよく説明されます。周囲の評価や信用を失いそうな環境に置かれた時、人は「恥ずかしさ」を感じる。人によってその感度は様々です。
こんなブログを毎回投稿して恥ずかしくないのかと突っ込まれそうですけど、そう思う方は僕より「羞恥心」の感度が高いということでしょうねー。読み返すと確かに恥ずかしい内容が多いことは認めます。汗
「耳なし芳一(ほういち)」の話を有名にしたのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』でしょう。高校時代に英語版の『KWAIDAN』でこの物語を読んだ方も多いのではないでしょうか?
盲目の琵琶法師である芳一は毎夜、平家の亡霊たちの前で琵琶を演奏する。芳一を守るため僧侶が彼の体にお経を書くが、耳だけ書き忘れていた。亡霊が現れたとき、見えていた耳だけを引きちぎり持ち帰ったという話です。
芳一は耳をちぎられても声を発することがなかった。気絶するほどの痛みにも無言で耐えたからこそ命が助かった訳です。彼の心は強く、耳を失っても心を無くすことがなかったから恥にはならなかった。(ちと無理やりかなぁ…)
八雲と妻セツの仲の良さは有名で、幼少の頃から物語好きだったセツは、語り部となり夫の執筆作業の力となったと言われます。小泉八雲の書いた怪談・奇談の多くは、セツが語って聞かせたものです。
小泉セツは士族の娘。1868年(慶応4年)2月4日生まれで、父方も母方も松江の名家でした。当時、日本は幕藩体制から明治維新へ移行する近代化改革の真只中で、まさに士族没落の時代でもありました。
英語教師として松江に赴任した八雲の世話をするため、困窮していたセツは1891年(明治24年)2月頃から住み込みで働くようになり、結婚後も八雲が1904年(明治37年)に心臓発作で突然亡くなるまで献身的に尽くしたと言います。
耳をなくした芳一の話を書いた八雲は、愛するセツの話す伝説をしっかりその耳で聞き、再話することで新たな日本文学を創出した。聞く耳をちゃんと持つことができれば心も豊かでいられるということでしょう。
今年は小泉八雲の『怪談』出版120年、そして没後120年の節目。そろそろ僕が同じ愛妻家として、耳も心もなくした恥ずかしい男の一生を書く頃合いでしょうか。タイトルは『耳も心もない男』。来年の出版を目指します。ウソです。