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アントワープのお猿さんとフランダースの犬 〜188回〜

『フランダースの犬』で有名なアントワープ聖母大聖堂
『フランダースの犬』で有名なアントワープ聖母大聖堂

あけましておめでとうございます! いよいよ2025年。昭和100年、戦後80年となる年を迎えました。今年が激動の年になることは間違いなく、我々には変化の荒波に立ち向かう勇気が求められるでしょう。

 

昨年最後のブログで、奇才ピーテル・ブリューゲル(父)の絵画『二匹の猿』(1562年)を紹介しました。今回は予告した通り、この絵をもとに我々は2025年をどう生きるべきかを考えたいと思います。稚拙な私論なので大目に見てくださいねー。

 

この絵は、ベルギーのアントワープ港を背景に、鉄の鎖で繋がれた2匹の猿がアーチ型の窓枠に座り、遠くに広がる都市や海を眺める構図で描かれています。ちなみにアントワープは有名な童話『フランダースの犬』の舞台となった街です。

 

ピーテル・ブリューゲル(父)『二匹の猿』
ピーテル・ブリューゲル(父)『二匹の猿』

一見穏やかなこの動物画が実は人間社会の闇を描いたとされるのは前出のとおり。今日はこの絵をフランスの哲学者ミシェル・フーコーの「規律」と「監視」の概念から紐解いてみましょう。

 

『監獄の誕生』で、フーコーは監視社会が、人々を内部化された「規律」によって支配し、自発的に自己を管理させる「監視」の構造を指摘しました。この視点から作品を見ると、猿の鎖は社会制度による束縛を象徴する訳です。←ちと難しい?

 

ヨーロッパにおいて監獄は身体に対する刑罰の場から精神に対する刑罰の場へと移行するのですが、フーコーは刑罰が変化する過程で新しい権力作用「規律」が出現したと主張しました。言い換えると、規律によって権力を根拠付けたということ。

 

この絵画は社会における管理体制と個人の自由の対立を象徴していると読み解くこともできます。猿が外の景色をニヤニヤと眺める姿は、フーコーの提起した権力への「抵抗」の可能性を暗示するものと解釈できるかと思います。(あくまで僕の視点ですけどね笑)

 

この絵画が描く束縛と解放のテーマは、日本社会が今直面する現実と可能性の両面を映し出しているようにも見えます。例えば、束縛は、東京一極集中や官僚体制の硬直化であり、解放は、地域の再生やウェルビーイングな働き方の促進のように…。

 

レガシー企業では過剰な管理や評価制度等の「監視と規律」のシステムが人々に心理的圧力を与え続けるなか、少子高齢化とそれにそぐわぬ年功序列型給与体系・年金制度の課題が顕在化していて、特に若い人たちが将来への夢を見出せなくなっています。

 

前回すでに種明かしをしたように、2匹の猿はつながれている鎖が縦に向きを変えれば鉄の輪から外れる状況にまったく気づいていない。喩えればフーコーの言う権力の技術である「規律」に自ら洗脳され盲目となっているに過ぎません。

 

日本社会という監獄(言い過ぎ?)に我々を拘束する鎖も簡単に取り外すことができるものかもしれない。失われた30年は既得権益を守ろうとする権力と、それを壊せない日本の規律そのものが原因だったと僕は感じます。

 

アニメ『フランダースの犬』©NIPPON ANIMATION CO., LTD.
アニメ『フランダースの犬』©NIPPON ANIMATION CO., LTD.

『フランダースの犬』の主人公ネロは、夢やぶれ未来への希望も失ったまま極寒の吹雪の中、アントワープ聖母大聖堂の前で愛犬パトラッシュと共に凍死してしまった。今、日本でも貧困の中で希望の持てない若者や子供たちがたくさんいるのです。

 

二匹の猿のように規律という鎖に縛られ権力に監視されたままでは、若者や子供たちが日本の未来を変えることはできない。日本の悪しき規律を作り出した社会や学校、それを拘束する制度や法律の変革に着手しなければダメです。

 
日本をしばり続けてきた「見えない鎖」を解くタイミングは、昭和100年、戦後80年の節目を迎える今年しかないでしょう。ネロのような子供たちを生む社会にしてはいけませんから。