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座禅とビギナーズラック(永平寺の修行体験その2) 〜191回〜

曹洞宗大本山「永平寺」
曹洞宗大本山「永平寺」

大寒の1月20日、福井県にある曹洞宗大本山「永平寺」で一泊二日の参禅研修を受けました。前回のブログでは、開祖である道元禅師の考える食事の重要性について体験を踏まえて感想を書きましたが、今回はメイン体験である「座禅」のことを書きたいと思います。

 

研修の最初にいきなり、座禅体験がありました。基本の姿勢(足の組み方:結跏趺坐や半跏趺坐、手を組み方:法界定印)を指導のもとに試みながら早速、座禅を組みます。言われるがままに身をまかせる訳です。道元の有名な「只管打坐(しかんたざ)」ですね。

 

「只管」は「ひたすらに」という意味で、「打坐」は「座禅をすること」を意味します。確かに、いきなりやるのが道元の教えに従っているのかもしれません。うーじゃぱーじゃ言わんと、座禅組んでみいや!(つべこべ言わず座禅を組みなさい。広島弁)って感じw

 

特に僕のような理論から入る屁理屈人間には良かったのかもしれない。と言うのも、講話とかでいろいろと思想を教わった後より、この初回が最も瞑想感覚を味わえたのです。道元の言ういわゆる「身心脱落(しんじんだつらく)」のイメージを何となく感じた訳です。

 

「身心脱落」とは、自分の身も心も執着がなくなって、自由な解脱の境地に達することを意味します。座禅の初心者が解脱の境地なんて分かる訳ないじゃ〜ん!と思われるでしょうが、その後の座禅数回を通じて、初回が最も無心になれたのは間違いありません。

 

身心脱落について道元の『正法眼蔵』 「現成公案」巻に次の名文があります。

――仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。(中略)自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。――

 

僕なりに現代文に訳すと…

「仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである。(中略)自己の身と心だけでなく、他人の身と心をも、自由の境地にさせることである。」

 

曹洞宗大本山「永平寺」
曹洞宗大本山「永平寺」

『正法眼蔵』は、道元が生涯をかけて著した全92巻(=75巻本+捨遺5巻+12巻本)の大著で、曹洞禅思想の神髄が説かれています。僕は40代前半に、河出文庫版の現代文訳全5巻を拾い読みし、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に似た壮大な哲学宇宙を感じました。

 

「自己を忘れる」とは、考えている自分を大事にしていては全然ダメで思い切って自分を消滅させてしまえということ。過剰な自意識(我執)をなくしてこそ「真理の世界」に溶け込む経験ができるのだと僕は捉えています。(経験と書くと何か違うかもしれぬが…汗)

 

仏教では自己と他者を対立するものとは考えませんよね。自分も他人もみんな仏法の世界の中にいるわけで、だからこそ宇宙の真理に一致(全宇宙一体化)するということは、自己の身心も他人の身心も「脱落せしむるなり」なわけです。詩的な世界観だよなー。

 

何だか、ビギナーズラック的な今回の瞑想体験を説明できる理論を考えていました。頭でっかちに我執を離れようとする思考に溺れてしまう前に、いきなり座禅を組んだのが今回の僕の成功体験だったと感じます。まさに只管打坐。ただただ座るのみです。

 

禅道場で調身(姿勢を正しく整える)や調息(息を整える)を学び、基本を固めた上で何度も座禅を繰り返すことが、本当は一番の近道なのだと思います。永平寺の参禅は環境も整っていて、僧侶の方々も優秀でみな優しく、素晴らしい場だと感じました。

 

皆さんも機会があれば是非、体験してみてくださいね。――自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり――自分と他人、そして自我と宇宙との境界を消すことは、世界平和にきっとつながると信じます。 最後に道元さんに礼拝し筆を置くことにします。拝

曹洞宗大本山「永平寺」
曹洞宗大本山「永平寺」