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困った人たちと恋文

毎週土曜日の朝に、ブログを書く習慣になっている。だいたい「ですます」調が普通だが、最近は「である」調で書くこともあり、まさに気分次第。いい加減である。

 

会社から自宅リモートワークの指示が解かれて、出社することが増えてきた。最近は新型コロナ感染者が再び急増し、いつ自宅勤務に戻るかもしれない。

 

かつては、広島電鉄の6番バスで通勤していた。ただ定時出社のために、6番バスに乗るとだいたい困った人その1に遭遇するのである。

 

その人は、席に座ることなく、うろうろと席の周りを前に後ろに行ったり来たりする。吊革から吊革に、まるでオランウータンのように移動して歩く。コロナ禍の車内では、結構邪魔だ。

 

うろうろするのが習性なのか癖なのか、たまに「どこまで行くの?」と問いかけてきたりして、さらに面倒くさい。毎回「本通りまで」と答えるのが嫌で、バス通勤をやめた。

 

こうやって今、ブログを書いていると、我が家の近くに現れる困った人その2の声が聞こえる。その2の人は、いつも怒っており大声で文句を言いながら歩く。何を言っているかは定かでない。

 

ただ、ずっと怒って大声を出し続ける。そうとうなエネルギーである。文句の言い方に抑揚があり、とてもリズムカルで、音楽を感じる。もしかしたら著名な作曲家なのかもしれない。

 

そう考えると、その1の人は、マーケティングリサーチャーかもしれぬ。不可思議な行動をとる人間に対して、人々がどのような反応をするのか毎朝調査をしているのではなかろうか。

 

その1の人も、その2の人も、早朝から結構な体力を消耗していると思う。先日、出勤時に会社の近くで、大声で怒鳴る声が聞こえてきたので、振り返ると、その2の人であった。

 

私がバスを使って通勤する距離をずっと怒鳴りながら歩いて来たとすると、すさまじい体力である。もしかしてスゴイ修行者なのかもしれない。怒っているのではなく、お経かもしれぬ。

 

良寛和尚のことは皆さんご存知だろう。貧乏暮らしで子供たちと手まりをついて遊ぶ、清らかで優しい独り者のお爺ちゃんだ。でも実は、かの道元禅師の哲学書『正法眼蔵』を諳んじる天才修行僧であった。

 

人は見かけによらぬもの。その1の人も、その2の人も、もしかしたらスゴイ方々かもしれぬ。私も――わが身を正して精進を続けるべし――と言うことなのである。

 

余談であるが、広島県美の『良寛展』に行った時、多くの優れた書作の最後に、70歳の良寛が30歳の若き尼僧、貞心尼(ていしんに)と交わした恋歌を見た妻の一言を紹介しておく。

 

いかんせん 学びの道も 恋草の 茂りていまは文見るも憂し(貞心尼)

いかんせん 牛に汗すと思いしも 恋の重荷を 今は積みけり(良 寛)

 

「なぁんだ。結局は、単なるエロ坊主じゃないの」泣