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幸せとメリトクラシー 〜138回〜

「メリトクラシー」という言葉を知ったのは最近のことです。孫泰蔵さんの著書『冒険の書(日経BP)』の中にキーワードとして現れます。皆さんは聞いたことがありますか?

 

簡単に言うと、メリトクラシーは個人の「能力」によってその地位が決定されるべきだとする考え方で、孫さんは学校こそがメリトクラシーを強化する総本山であるとします。

 

能力格差はほぼ偶然で決まるにも関わらず、学校は自己責任論的に格差を正当化している。すなわち能力は結果論と比較論で生まれたフィクションでしかないと言う訳です。

 

さらに能力を「評価(数値化)」する物差しは同じ基準にする必要があるため、学校は「人と違うことをするな」という同調圧力の中で、目立たぬが勝ちとするダメな人間を育てることになる。

 

さすがに鋭いですよね。幸せ探しに懸命になっている若い方を見かけますが、学生の「幸せ」が誰かに決められた評価の上にしか生まれないとしたら、これほど不幸なことはありません。

 

「誰かが決めた評価軸に合わせずに、自分の好きなことを追求しろ!」という孫さんのエールにきっと励まされることでしょう。示唆に富んだとても刺激的な本だと感じました。

 

ウェルビーイングばやりの昨今ですが、本当の幸せはまさに「自分の好きなことをする」ということに尽きるでしょう。勉強も仕事も、他人の評価軸の中でさせられたくはない。

 

幸せで思い出したのですが、見田宗介さんの『現代社会はどこに向かうか(岩波新書)』にフランスの幸福感調査において「非常に幸福」と回答した青年の割合が載っています。

 

20代前半の青年たちの間で「非常に幸福」と最上級の回答をした人の割合は、1981年には19%だったのに、86年29%、96年39%、2008年には49%と着実に成長していて素晴らしい。

 

2008年の調査にはフランスの若者たちの自由回答があり、読んでいるこちらも幸せになるような表現がたくさんあるので、そのうち2つを転記しておきます。

 

◯私の理由はごく取るに足らないものです。私は最近大切な人と穏やかな一週間を過ごしたばかりです、いまでも、旅の興奮や、集中した読書にむすばれた歓びを感じています。

友人と、特に恋人の家での、とても楽しい夕べ、お茶、それに夕食。

恋人。そしてオルセー河岸で、彼の腕が私の背中を、あるいは彼の手が私のうなじを不意に捉えること。

アール・ヌーヴォーを鑑賞すること、それかクラシック音楽を聞くこと。

 

◯春が始まる、私は太陽が好きです、ただそこにあるというだけでも私に力をくれます。私は本当の友達、愛を見つけましたし、それ以外のもの、どんな物質的財産も、私にはあまり重要ではありません。

海辺で過ごしていたとき、私は波に飛び込みました。/春の始めの日、日の光のなか散歩しました。/ロンドンで私はお気に入りの花々を見ました。

 

気付かされるのは、ブランド品や高級車等の経済的な富に関することは一つも無く、身近な人との高歓や自然との触れ合いという文明が始まる前からあるような単純な幸福ばかりです。

 

経済成長のみを追いかけてきた資本主義が人々を本当に幸せにできたのか、この資料を眺めるだけでも感じ取ることができる。ウェルビーイングとは何なのか、原点を振り返る必要がありそうですね。